AKIRA Kazuki
「絵画」の拡張をめぐる思考―明楽和記「AKIRA」展について 高嶋 慈(美術批評/京都市立芸術大学 芸術資源研究センター 研究員) 明楽和記はこれまで、色鉛筆やカラー電球、着彩した角材や時計など、規格化された既成品を用いて、「空間に色を置く」ことで作品を制作してきた。そうした明楽の試みは、「絵画とは、既製品の絵具を選択してキャンバスに配置することである」というデュシャン的な還元的思考を、白いキャンバス平面からホワイトキューブの空間へと拡張し、絵具の代わりに既製品を配置することで成立している。2016年にCASで開催された個展では、「ターナーアクリルガッシュの6色と12色セットの絵具」という規格化された色と配列に基づき、「他のアーティストの美術作品」を選んで配置するという、プロブレマティックな試みが発表された。「メーカーの絵具セットの色数」という多律的なルールに準拠し、本来は歴史的・社会的・概念的な文脈を有する「作品」という複合的な単位を、単色の色彩へと還元し、空間内に再配置すること。その行為は、「絵画」、「ホワイトキューブ」、さらには「キュレーション」といった制度的な問題をはからずも照射していたと言える。 本個展では、学生時代に影響を受けたという「具体」の作家・金山明が、玩具の電気自動車(あるいは自作の電動機器)に描画材を取り付けて制作した絵画作品を、実物大に「模写」した作品《copy (March 8)》が発表されている。「電動玩具を用いて他律的に生成された絵画」を、もう一度「手でなぞり直す」という行為は、描画主体としての「手」の介在を否定したところに、再度「手」の痕跡を介入させて、「身体的反復・再演がはらみ込むズレ」を提示するとともに、「明(あきら)≒明楽(あきら)」という一種の憑依によって、今や歴史化されつつある「具体」という過去に強引に介入し、「現在時」の絵画として再起動させようとする身振りであるとも言える。 一方、1階の展示会場では、ファンに撹拌されたカラフルなスーパーボールが、ホワイトキューブの空間内を縦横に飛び交う作品《An Infinite Stroke》が展示されている。弾力性の強いボールは、床や壁、鑑賞者の身体に当たって鋭く跳ね返るため、作品内に入る鑑賞者は保護メガネと盾で身を守る必要がある(それでも脚や肩などに当たると痛い)。これまでの明楽作品を鑑みれば、「(既成の)色が置かれた空間」を「絵画」として拡張的に捉える作品の系譜上に位置づけられるが、本展の場合、「主体」及び「身体」の問題が全体を貫く基軸として浮上する。電動玩具で自動的に生成された金山作品の場合、「描画主体」は、「制作主体」である作家・金山明の身体から切り離されていた。一方、そのような金山作品を「模写」した明楽作品においては、「なぞり直す」明楽の身体性のうちに「制作=描画主体」は再び統合される。 では、カラフルなスーパーボールが空間内を飛び交う作品においては、「描画主体」は誰(何)なのか?ここでは「絵画」は空間的な経験として拡張されつつ、ボールの軌跡の定着を阻む運動性によって、生成と同時に暴力的に解体され続けている。また、高速で飛んでくるボールを避けようとして右往左往する観客の視線が、その都度異なる視覚のフレーミングを発生させ、そうした「絵画」の生成と解体のただ中に投げ込まれた観客の身体それ自体が、ボールの軌道を変える因子として作用する。観客は、「絵画」の生成に関与する「描画主体」として参加しつつ、生成と同時に解体する暴力性が文字通りの「暴力」として身体に降りかかることで、「見る」主体としての安全な座を脅かされてしまうのだ。一見すると遊戯的に見える本作だが、「絵画」はある種の政治的な場として捉え返されている。
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