AKIRA Kazuki
物に語らせる 渋谷亮 2018年9月15日の土曜日、神戸アートヴィレッジセンターを訪れた。十数年ぶりの訪問だった。「KAVCアートジャック2018」に出品された明楽和記の作品を見るためだ。場内は盛況で、現代的なパフォーマンスが繰り広げられていた。しかし、前情報もなくふらっとやってきた私は、どうすればいいのか分からず、どこか居心地の悪さを感じながら会場をうろつく。彼の作品は目につかない形で、会場の隅っこに配置されていた。ほとんど誰も気に留めない。明るい会場の雰囲気とはまるで異質で、明らかに場違いだった。とはいえ、所在がないにもかかわらず、そんなことは気にせず進む、そのような図太さが彼の作品にはあるのかもしれない。 明楽和記とはじめて会ったのは五年ほど前のことだ。それは作家としてではなく、教育や支援に携わる人としてであった。その後も彼と時おり会って話すのは、だいたい子どもについてのことだった。彼が子どもと関わるその態度は、固有の倫理に貫かれているように感じられた。子どもたちが自分と世界との関係を独特の足取りでもって探索する、その歩みは行き当たりばったりのジグザグの行程を描く。それを彼は導くでも後押しするでもなく、自由な探索のための場を用意する。そのような関りを通して彼自身がおそらく、自らと世界の間に固有の回路を作りだそうとしている、漠然とそうした印象を抱いていた。 だから私は彼の作品について詳しく知っているわけではない。そもそも私は芸術を語る言葉をほとんど持っていない。それでも彼の作品の幾つかを見て、彼の話を聴く内に、その制作への姿勢が、支援に対する態度と結びついているように感じた〔註1〕。だから私は、自分が感じたことを言葉にしてみようと思う。それは、彼が物に語らせようとしているということだ。犬のおもちゃ、プラスチックケース、時計、風船、ビー玉、スーパーボールなど、彼の作品では様々な物たちが普段とは異なる仕方で動きはじめる。物たちはある時はその特性を奪われ、ある時は思いもよらない側面を見せる。物たちに語らせること、あるいは物たちが自分なりに世界との関わりを探索する場を用意すること、それがおそらく彼の作品の主要なモチーフの一つである。 ***** 彼は美術に嗜む祖父母のもとで育てられ、小さい頃から粘土をいじったり、絵を描いたりしていたという。しかし、自分の不器用さに気づいた頃から、人前で描くのを避けはじめる。代わりに感情が高まった時には、ノートの切れ端などに殴り描きを繰り返していたようだ。それは作品作りというより、衝動に駆られた感情の発散であり、描きすぐ忘れるという性質のものであった。彼はその行為を大学に入って制作活動をはじめるまで続ける。 突発的で間欠的な衝動、そうした衝動はえてして自己と世界の境界を曖昧にし、何であれ現実的な形を取ると一種の享楽をもたらして、唐突に消える。それは不可能なものへ急き立てる欲望とは異なり、文脈を欠き、閉鎖的で切断的であるがゆえに、創造的な効果を持つことはない。壊れた単純機械のように、どこにも行きつかない無意味な行為を引き起こすだけである。にもかかわらず明楽が展開するのは、衝動を源泉とする不毛な行為を、独自の仕方で制作へもたらす試みではないだろうか。 制作とは何か、彼の作品にはこの問いが一貫して反響している。よく知られるようにH・アーレントは「労働」と「制作」を区別し、「労働」を即時的な消費対象の生産と結びつけ、「制作」を持続的な「共通世界」の形成と関連づけた。彼女によれば芸術家が生みだす作品は、有用性を持たないにもかかわらず持続的だという点で、世界の世界性を顕にする制作の範例である〔註2〕。しかし今や芸術作品であっても、必ずしも共通世界を形成するわけではなく、素朴にその持続性を信じることは難しい。こうした時代にあって明楽は、ほとんど労働と見分けがつかない形で固有の制作を遂行する。そのために彼が拘るのは、物の豊かさではなく、その貧しさに留まることである。 ***** 彼にとっての物とは、自らの内に安らっているような事物ではなく、消費の対象としての商品である。とはいえポップアートがあえて大量生産の商品やイメージを選び取り、それを脱構築しながら、虚と現実の戯れを演じたのだとすれば、彼の作品にはそのような屈託は見られない。むしろ自らの生活環境をなす自明の物たちが、発生的な自然の事物や手仕事による工芸品と同じようなものとして用いられる。そこでは物たちは、溌剌とした奇妙な貧しさを帯びる。すなわち、その内に多様性や自然を宿すことなく、工場体制のもとで生産され、市場を経由して移動し、即座に使い尽くされるという意味で貧しい。他方でそのような貧しさを自明とし、気にも留めないという意味で溌剌としている。 かつてW・ベンヤミンはボードレールやシュルレアリスムに、商品を古びたアレゴリカルな事物として眼差す身振りを見いだしていた。そのような眼差しは、商品の内に眠る太古の夢を目覚めさせ、商品が纏うファンタスマゴリーを打ち破っていく〔註3〕。それは、資本主義的生産体制のもとで市民社会を脅かすキッチュの氾濫に対して、商品の貧しさを反転させる抵抗の身振りだと言える。だが、明楽にとっての物たちはすでに太古の工芸品を決定的に失っている。そこでは物たちは自らの貧しさすら認識できず、自らを自然の事物や手仕事による作品と区別することもない。そこには貧しさを土壌とする溌剌さがある。 物たちは貧しいがゆえに、否応なく剥き出しにされる。明楽の作品においてそのような剥き出しの形式は、おそらく二つの系列に区別できる。一方の系列では、物は色へと還元され、並べられ積み重ねられる。そこでは色は一種の覆いとして機能し、物から有用性や機能を奪う。こうして物は社会的な連関から切り離され、空虚化される。さらに空虚となった物たちを並列的に配置することで、再秩序化がなされる。他方の系列では、ファンの回転やボールの直線的な動きなど、単調で不毛な運動の反復が固有の強度へと高められる。例えばスーパーボールや卓球の玉は、高速で動くことで線と化す。そこでの運動は、身体性をともなう固有の身振りとは異なり、計量可能なエネルギーを基準とした機械的作動である。 色への還元と並列的配置が、物の空虚さを否定的な仕方で剥き出しにするのだとすれば、運動は、積極的な仕方でエネルギーとしての物質性を顕にする。例えば2010年の《twelve clocks in twelve colors》は、この二つの系列を組み合わせた作品となっている。ペンキで塗られた時計は、時間を人に伝えるという機能を奪われ、一見何か分からないカラフルなオブジェとなる。しかし時計は時を刻み続け、その単調で反復的な針の動きは間欠的なリズムへと純化される。そのリズムはベンヤミンが語ったような物の嘆きですらない。むしろ自然を失い、有用性を失い、空虚であるにもかかわらず、そのことに無頓着であるような、そうした物たちの歌である。そこで物は、貧しさをそのままに、社会的な連関の外で固有の仕方で屹立する。 ***** 自然や物を挑発し、計量可能なエネルギーとして循環させること、第二次大戦後のM・ハイデガーはそれを現代技術の本質として把握した。ハイデガーによれば技術の本質とは「集‐立Ge-stell」である。それは、あらゆるものを調達し、用立て、配備する駆り立ての体制のことだ。そこではすべてがエネルギーのもとで立ち現れ、循環的な運動へと委ねられる。興味深いことにハイデガーは、芸術を「集‐立」に対置している。すなわち芸術作品の制作は、自然や物を用立てることなく、そのままに向き合う可能性を探る試みでありうる〔註4〕。しかし明楽にとっての制作とはむしろ、「集‐立」をイチからやり直すことだと言えるだろう。彼は物を挑発する体制をミニマルな仕方で、すなわち自分の手の届く範囲で作り直そうとするのだ。 彼の制作過程は、素材や対象の内なる特性と向き合い、手仕事によってそれと戯れるというのとは無縁である。実際に彼は既製品を用いるだけでなく、多くを発注し、自分で手掛けることは少ない。それだけでなく鑑賞者や物もまた、業者と同じように働く存在として扱われる。例えば犬のおもちゃを用いた作品では、絵の具は業者が運んできて、犬のおもちゃをどう配置するか、どのような色を使うかは鑑賞者が決め、犬のおもちゃが紙の上を走り回って絵を描いていく。彼は2009年のこの作品に、《worker》と名づけている。すなわちすべてが、単純作業に従事する労働者として働かされる。個別の作業は機械的で反復的な「労働」にすぎない。しかしそれが組み合わされることで「制作」となるのである。 ここで重要なのは第一に、物が人と区別されることなく、労働のアクターとして扱われている点であり、第二に、個々のアクターが互いを意識することなく、それでいて各作業が組み合わされる体制が巧妙に組み立てられているという点である。そもそも彼は《worker》に着手する以前、ティンゲリーの影響のもとで鉄の自動機械を作ろうとしていたという。しかし動いている犬のおもちゃを見た時、「これでいいじゃないか」と思ったそうだ。おそらくティンゲリーが廃材をもとに機械状の複雑な編成を形成するのに対して、明楽の関心は、調達し、用立て、配備する疑似企業な体制を、換言すれば一つの「組み立て」をミニマルな仕方で構築することにある。 とはいえ彼は、いったん自らの組み立てができてしまえば、一切の管理を放棄する。だからそれは、マニュアルが曖昧で、管理者がいない、そうした企業体である。そこで物は自由に動きはじめる。業者や鑑賞者の配置と協働は、最終的に物の自由な運動を準備することへと向けられる。むろんその運動は単純で機械的な反復にすぎない。にもかかわらずその運動が単純さをそのままに、一種の自由を実現する。犬は自由に前進と後退を繰り返し、シャボン玉が自由に宙を舞い、ビー玉は自由に落下し撥ねる。単調な運動であるにもかかわらず、規格化の基準がないゆえに、やがて各自が個々の仕方でその軌道を描きはじめる。そのような無数の軌道の内で星座のようにして、一つのイメージが浮かびあがるのである。こうして、どこにも行きつかない単純な運動にまで還元された労働が、その貧しさのもとで制作へと転換される。そこに示されているのは、「集‐立」の体制をイチからやり直すことで、これを脱臼する試みではないだろうか。 ***** 「KAVCアートジャック2018」の明楽の二つの作品は、彼がこれまで練り上げてきた方法を発展させたものだ。一つは、瞬間を切り取った写真を極端なまでに拡大した上で、分解し再配置したものである。それは緑や青などの色の面となり、会場の窓に貼りつけられていた。もう一つは、キャンバスの上に置かれたラクトアイスが夏の暑さによって溶け、自動的に絵が描かれる、というものだ。この作品は会場の隅っこに何点かひっそりと配置された。興味深いことに、タイトルはともに《Melting Painting》である。とはいえmeltの含意は両者で異なっている。溶解させ解体する操作という意味と物理的に溶けるという意味である。 一つ目から見ていこう。この作品は色の系列に分類できるものであり、色への還元と再配置によって物を有用性や機能から切り離すという操作が展開される。だが、操作の対象となるのが、物ではなく写真のイメージだという点がこれまでとは異なる。また色へ還元するために用いられる技法も、画像の拡大によって抽象化するというものである。すなわちここでは、拡大と再配置を介してイメージが色へと溶解し解体される。しかし、物の空虚さを剥き出しにする操作をイメージにそのまま適用しているため、どこか噛み合わなさを感じさせる〔註5〕。 これに対して二つ目では、ラクトアイスという物が扱われ、溶けて〈垂れる〉という単調で不毛な運動へと剥き出しにされる。そのためにラクトアイス、キャンバス、そして夏の暑さ(ないし温められた空気)といったアクターが調達され、一つの組み立てが構築される。《worker》と比べてもアクターの数は限定されており、組み立ては一層極小化されている。明楽が行うのはアイスを買いに行って、キャンバスの上に置くだけである。ラクトアイスは物理的に溶け、自由に垂れ、そこに幾分グロテスクなイメージが浮かびあがる。最後にはアイスの棒が残される。 近年のアートはしばしば、人々の関係性に目を向ける。人々が多様な仕方で結びつき、その結びつきの豊かな形式が作品として提示される。だが明楽はあくまで物に拘り、物を剥き出しにすることへと専心する。貧しき物たちが自由に動き、自由に語ることができるように。それは反時代的な身振りかもしれない。その反時代性は、根底に怒気を秘めているように私には思われる。神戸アートヴィレッジセンターで彼の作品を見た時、まず思い浮かんだのは梶井基次郎の『檸檬』だった。明楽の作品は、本屋に置かれた檸檬のように場違いだ。私はそれが爆発する様を想像し、幾分奇妙な気持ちになった。しかし明楽の作品は、単なる檸檬とは異なり、本当に爆発するかもしれない。アート自体を木っ端微塵にするために?それはおそらく今も、その時に向かって、チクタクと人知れず時を刻み続けている。 渋谷亮(教育思想史・教育哲学) 〔註1〕 私が明楽の作品を実際に見たのは、「KAVCアートジャック2018」の二つだけである。この原稿の執筆にあたって、4時間ほどのインタビューを行った。また写真をもとに彼に過去作品についての説明を受けた。 〔註2〕アーレントの制作と芸術との関連づけについては、以下を参照。アーレント『活動的生』森一郎訳、みすず書房、2015年、203-215頁。 〔註3〕この点に関しては以下を参照。ベンヤミン「パリ――一九世紀の首都」『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』浅井健次郎編訳、筑摩書房、1995年、325‐356頁。「ボードレールと第二帝政期のパリ」『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』浅井健次郎編訳、筑摩書房、2007年、170‐336頁。「夢のキッチュ」『ベンヤミン・コレクション5 思考のスペクトル』浅井健次郎編訳、筑摩書房、2010年、422‐427頁。など。 〔註4〕ハイデガーの技術論、および技術と芸術の関係については以下を参照。ハイデガー『技術への問い』関口浩訳、平凡社、2013年。秋富克哉『芸術と技術 ハイデッガーの問い』創文社、2005年。 〔註5〕 ここには物とイメージの関係という厄介な問題があり、明楽は現時点でこの問題に取り組もうとしながらも、これを扱いあぐねているように見える。ここではこれ以上論じることができない。
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